ボートレース深イイ話【強いこだわり】

●ダービーこそが最高峰

ボートレース界最大のレースといえば、間違いなくグランプリである。優勝賞金が1億円と破格であることはもちろん、あらゆるレースのなかで出場できる選手数が最も少ない、1年間の総決算となるメインイベントのSGであることなど、グランプリはすべての意味で特別扱いされる一戦だ。選手にとっても最大の目標はもちろんグランプリだし、あの松井繁が「毎年出場する」を目標と掲げていると聞けば、なおさら特別感は強くなる。
そんななかで、今村豊は「ダービー」こそがナンバーワンのレースと言い続ける。今村とて、もちろんグランプリは大きな大きな目標となっているが(ダービーは3V、しかしグランプリは優勝なし。やり残したこと、とグランプリを表現することもあった)、それでもダービーというものに今村は強いこだわりを抱いているのだ。
今村のデビュー時(81年)には、まだグランプリがなかった、ということも大きいのかもしれない。グランプリ初開催は86年、それまではいわゆる“4大競走”の時代だった。4つのビッグのなかで、その競技の最優秀者を決するという意味をもつ選手権”(ダービーの正式名称は全日本選手権)を特別視するのは当然であり、ある世代より上の選手には同様の感覚があるだろう。しかし、グランプリにも何度も出場してきたにもかかわらず、今村は変わることなくダービーを最重要視する。その理由として、以前の本誌インタビューでは「賞金王はSGを勝った選手が出るSG。だから、ダービーに出られないのに賞金王には出られるケースもありうる。一方で、ダービーは1年間、高いレベルで活躍し続けなければならない。どちらに価値があるかといえば、ダービーだと思う」と語っている。一発勝負でたまたま勝てばグランプリに行けるが、ダービーはそれでは出られない、というわけだ。
そんな今村が、今まででもっとも緊張したレースが、87年のダービー優勝戦だった。ずっと夢見続けたダービー制覇のチャンスが来たと思ったら、ガチガチになってしまったのだ。それがSG初優勝のチャンスというわけではない。すでに84年にはオールスターを勝っているのにもかかわらず、ダービー初優勝を前にあの今村豊が硬くなった。結果、これが
今村の初めてのダービー制覇となった。先頭に立ったレース中、今村はすでに涙を流していたという。

●6コース一本の人生!

阿波勝哉、と名前を出せば、彼のこだわりについては誰もが即答できるだろう。
6コース一本!
同期の澤大介とともに、徹底的にそのこだわりを突き詰める存在。たとえ現在はA2級であっても、あるいはB級であっても、そのこだわりに共感し、そのこだわりを愛するファンが圧倒的だろう。その意味で、彼らはスーパースターである。
阿波といえば、チルト3度の使い手として名を馳せてきた。阿波が3度で名前を売り始めた当初、最大チルト角度が3度というレース場は数場しかなかった。それが現在15場まで増えてきたというのは、間違いなく”阿波効果”だ。
「チルト3度でギュイーンと伸びて内を呑み込む」爽快なレースは、「A1級であればオールスター出場確実」というくらいに人気を博した。それを欲する場が増え、全国に波及していったのは必然とも言える。
ただし、阿波がこだわったのは「チルトを跳ねて伸びる」ことではなかった。こだわったのは、あくまで「6コース一本」である。そのこだわりを追求するうえで、もっとも有効な武器が「チルトを跳ねて伸びる」ことであったわけで、それはあくまで手段であった。理想の仕上がりになれば、6コースは不利ではない。むしろ有利だと考え、阿波は伸びる調整や取り付けを模索したのである。
プロペラ制度が変わり、モーターのスペックも変わって、以前のような強烈な伸びはなかなか引き出すことができなくなった。阿波と澤が苦戦しているのはご存知の通りだし、以前は二人に追従していた選手も自在派へと戦い方を変えている。それでも阿波は(澤も)6コースを貫いている。08年のインタビューでは、「伸びは一生続くかはわかりません。ただ、6コースは一生続きます」と語っている。阿波はその言葉通り、6コース一本の人生を歩み続けているのだ。